贈与は、受け取ることなく開始することはできない。

先日、贈与というものについて考えるきっかけがあった。これまで自分が関心を持って考えていたことのいくつかの点と点がつながって少しばかり興奮していて、そんなわけでこの記事を書いている。

最近、なんとなく自分は「分霊」をしたいのかもしれないと考えていた。突然のオカルトと思わないで欲しいのだが、分霊といっても、分霊箱——『ハリー・ポッター』シリーズに登場するホークラックスのことだ。

分霊箱あるいはホークラックスとは、闇の魔法使いや魔女が不死性を獲得するために自身の魂の一部を閉じ込めるための強力な物体である。分霊箱があれば肉体が破壊されたとき魂をこの世に結びつけることができるようになる。

ハリー・ポッター Wiki - 分霊箱

いや、いよいよオカルトである。しかもホークラックスはその製造の過程が非常にまずいので、分霊箱をつくりたいのだと言うと自動的にかなりまずい人間ということになってしまうのだが、あくまで比喩の一つとして受け取ってほしい。第一僕はマグルであるので許されたい。

ここでいう分霊とは、自分の魂、自分が大切にしているものを、"分割して" 誰かに渡す、ということだ。

闇の魔術を引き合いに話をはじめてしまったが、「渡したい」という欲求は、心理学者エリクソンの提唱した「ジェネラティビティ」とおそらく関係している。

人間は青年期において、個人としてのアイデンティティ確立が重要になる。しかしそれに終わるのではなく、その後、成人期に到達した際には、前の世代からなにものかを受け継ぎ、さらに次の世代に送っていく役割を果たすことが、発達上、意味をもってくる。ジェネラティビティはそのような世代間の継承を表した概念である。

ジェネラティビティの生成過程-学校教育への示唆

ちなみに、このジェネラティビティ(Generativity)と生成AI——"Generative" AIという語義の繋がりに気づくと何かの深淵に触れたような気になってしまうのだが、本論ではないので惜しみつつ割愛する。

さて。好きな映画を聞かれたとき、僕は必ず『ペイ・フォワード』をあげる。『ペイ・フォワード』もまた、次に渡す、という物語である。ここから贈与の話に展開したい。

マルセル・モースは『贈与論』のなかで、贈与には「返礼する義務」が生じると述べた。返礼する義務とは、法的義務や直接交換の義務ではなく、受け取った、という責任が立ち現れることによって贈与が循環し、社会的結束が維持されるのだという観念を含むものだ。

裏を返せば、受け取っていないもの、少なくとも当人が受け取っていないと考えているものについては返礼の義務や責任は生じない。

近内悠太著『世界は贈与でできている』では、受け取っていない、あるいは受け取ったことに気づいていないものを誰かに贈ることはできないということが述べられている。

つまり、被贈与の気づきこそがすべての始まりなのです。贈与の流れに参入するにはそれしかありません。
(中略)
映画「ペイ・フォワード」から得られる教訓、それは「贈与は受け取ることなく開始することはできない」というものでした。そして、これが贈与の原理の一つです。

近内悠太. 世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング) (p. 36).

僕が誰かに贈りたいもの、それはおそらく僕が受け取ったもの、あるいは "受け取ってしまった" と感じているものなのだろう。そして本当に幸運なことに、いくつかを「分霊」することができたと(勝手に)思っている。

そんなことを考えるうち、僕は自分自身の「ものづくりに関する技術」の分霊先をずっと探しているのかもしれないと思い至った。すなわち、まだ贈ることができていないものでもあるのだ。

これは気づいたというより気づかせてもらったことなのだが、僕には技術の師匠がいない。ロールモデルや憧れの技術者もいない。もちろんお世話になった方々はいる、尊敬をし、刺激を受けた方の名前も思いつく。しかし自分はこのひとから受け取ったという "被贈与の気づき" を持つことができていない。

独学で技術を学んで偉いではないか、という話をしたいのではない。むしろ誰からも受け取っていないということが、自分のルーツのなさ、正当ではないという欠落に繋がっていると思う。しかしいまではこうも思えるのだ。これまで自分は、書籍やOSS、コミュニティ、知人友人といった "この世界にあるもの" からたくさんのことを学ぶことができた。そうであるならば、僕の返礼は、"この世界に対して置くこと" によってのみ達成されるのではないか。


——と、ここまで思考をめぐり、ふと思ったことがある。僕たちはAIから何かを受け取ることが可能なのだろうか。

いまでは多くのことをAIから教わるようになった。例えばプログラミングの疑問はほとんどすべてAIが回答し解決してくれるといって差し支えない時代だ。教育格差の是正やアクセシビリティの確保という意味ではたしかによいようにみえる。しかしAIには固有名が存在しない。プロダクトとしては名前があるが、モデルは変わり、なにより実存がない。

AIは人間の技術者がつくったものである。そこには多くのひとびとが関わっている。これまでの人類の歴史が積み上げたものを学習し、再生成していると考えれば、たしかに "この世界にあるもの" から受け取ったという図式は成り立つ。しかし、そこに「返礼する義務」は立ちあがるのだろうか。

悲観的にみると、AIの存在が当たり前になればなるほど、モースのいう贈与の構造、あるいは『ペイ・フォワード』の主人公トレヴァーの目指した善意の連鎖が希薄になっていくのではないかと想像される。これはなにも人々が邪悪になるからそうなるのではない。"あれは贈与だったと過去時制によって把握" することが難しくなることによってそうなるのである。

贈与はそれが贈与だと知られない場合に限り、正しく贈与となります。しかし、ずっと気づかれることのない贈与はそもそも贈与として存在しません。だから、贈与はいつかどこかで「気づいてもらう」必要があります。
あれは贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい。だから、僕らは受取人としての想像力を発揮するしかない。

近内悠太. 世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング) (pp. 78-79).

たしかに僕たちはAIに返礼をすることはないのかもしれない。それでも、他の誰かやこの世界から自分が何かを受け取ったこと、受け取ったかもしれないこと。そのような想像力を忘れないことで、僕たちは誰かに何かを贈ることがまだできるのかもしれないと、そう考えた。


謝辞
この記事を書くきっかけを与えてくれた大切な友人たちに。

本記事を書くにあたり、近内悠太著『世界は贈与でできている』読み直し、多くのインスピレーションを受け取りました。

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