括弧書きで生きるのをやめる。
いまから言うことは、あなたの人格を否定したり、攻撃する意図はまったくないし、あくまでも一意見だから、全然別の意見もあると思いますよ、それでも一応立場上言わないといけないことなので言いますね——。
一体いつから、僕たちはこのような前置きをしないと他者と関われなくなってしまったのだろうかと思う。
世界の"日常"がどっちかという話で、健康なときには病気については関心が向かないし、平和なときには戦争について関心が向かない。コミュニケ—ションの日常が"攻撃"になってしまった世界では、まず攻撃の意思がないことを表明しないといけない。すでに僕たちはそういう世界に生きているのかも知れない。
多様性が表出された時代と言われるが、それはすなわち対立しようと思えばどのようなことでも対立でき、それが可視化されるということでもある。いまではあらゆることで対立がおき炎上がおきるので、その果てに賢明な人は隙の無い発言しかしなくなった。"隙が無い発言"とは、一定の公共性があり、論破される余地が限りなく少なく、多くの人々に配慮がなされた発言のことだ。
もちろん正しいと思う。いっぽうでそれは、対立を起こし炎上を起こすことを厭わない人々に利する社会でもある。賢明に振る舞うためにはコストがかかるので、そうありたいと思っている人々は口をつぐむ、そうある必要がないと思う人々の声が大きくなる社会。そうした喧騒にまみれた日常を、自分の人生や生活に持ち込まないようにしたいと思った。
僕は人々が少しでも幸せに暮らす社会を理想としているし、スタートアップとしてそれに貢献し、自分たちが最高だと思えるプロダクトをつうじてユーザーと関わりたいと思っている。それが自分の日常であって、ひとつひとつの振る舞いや発言において、前置きや括弧書きをするのはそうではない人生を生きることだ。異論はあると思いますが——当たり前である、異論がない意見はないのだから。
誰かを傷つける意図がないことを表明することが誰かを傷つけないことにはならない。たんに自分がしっぺ返しを受けないようにするための保険でしかない。保険とは、責任のいくらかを負わないようにするためのものだ。
別に過激で極端な意見を表明したいのではない。異なる立場の人がいるということに対する想像力を持つこと、想像力を持とうとしていること。それは言うまでもないことで、その日常の中でさえも誰かを傷つけることがあり得る。そうしたことを引き受ける覚悟を持つことが、主体的であるということなのではないか。
括弧書きをやめるということは、読者を信じるということでもある。読み手を信じ、読み手に委ねる。僕も書き手から信頼される、信頼に足る読者でありたい。
括弧書きで生きるのをやめる。
2025年の抱負に代えて。