あれは贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい。だから、僕らは受取人としての想像力を発揮するしかない。

近内悠太. 世界は贈与でできている
(Japanese Edition) (pp. 78-79). Kindle Edition.

10年続く縁が自分を助けてくれることがある。

僕の前々職にあたる、株式会社ALBERTで働きはじめたのは2011年のことである。当時の代表だった上村さんとはいまでも懇意にさせていただいている。出会ってからじつに15年近くになる。僕が現職になって半ば頃だったか、上村さんがあるとき「過去のご縁が自分を助けてくれている。もしあのときの縁がなかったら今どうなっていただろう、と思うことがある」というような話をされたことがあった。

いま、仕事しているスタートアップでは、上村さんをはじめ、10年来の妙縁もあり、新しいご縁もあり、多くの方に支えていただいている。

今の自分に、10年後に自分が助けを求められる人、自分に助けを求めてくれる人がどれくらいいるだろうか。直接ではなくとも、今身の回りにいる人々に、そのようなご縁をつくり、渡せているのだろうか。その話を聞きながら、そんなことを考えていた。

個人主義の時代。会社や他者とはつかず離れず、個人の価値観と、個人の権利を主張できる社会。希薄さは美徳の一つになった。20代の時分、社会に馴染めなかった当時の自分を省みても、良い時代になったなと思う。

しかしふと、自分が受取人だったことが"後になって分かった"とき、受け取ったものを誰かに繋がなくてはならないのかも知れないという責任、責任のようなものが生じたことに気がつく。

長く続く縁は、本気で向き合った関係からしか生まれない、と話す人がいた。今はそれがよく分かる。現在は気づかれない。遡及的に"過去時制によって把握される"。自分が贈るのではない、かつて贈られたものに気づき、それをまた渡す。そうしたご縁が、10年、100年続くとよいと思った。